2006/02/26(Sun) 23:49 [permlink]
「博士の愛した数式」を観る。
物語は主人公の息子(√)である数学教師が教壇で自己紹介として、自分の半生を回想するシーンで始まる。家政婦の母の新しい職場は交通事故により「記憶が80分しかもたない」(←ということも忘れてしまうのでこのメモをいつも身につけているジャケットにピンでつけている)数学者のところへ働きにでる。主人公は生来の献身さと朗らかさ、そしてプロとしてのプライドを持って博士の生活を支え、博士も道を究めようとした人だけが到達できる大らかさを持って、主人公とその子供を数学の美しい調和の世界に誘う。
素数、友愛数、完全数、オイラーの等式といった美しく、シンプルでありながら奥深い世界が、あまりにも饒舌にすぎる現代と対照的で、多くを語りすぎるのではなく「大切なことを心で視る」ことを博士は教えてくれる。そうやって本質をじっくりと学ぶ習慣を与えられたルート少年はやがて数学を愛し、それを仕事とするようになり、またその愛情の起源を自分の教え子に伝える。
残念ながら小説を読んでいないので何とも言えないが、小説を読んだ人の多くも鑑賞することを想定しているためか、やや伏線が甘いというか唐突な印象を少しだけ受けた。しかしながら、落ち着いた雰囲気の中に日本の静かで豊かな自然、というか豊かな「時間」を感じられるいい映画だった。
物語は主人公の息子(√)である数学教師が教壇で自己紹介として、自分の半生を回想するシーンで始まる。家政婦の母の新しい職場は交通事故により「記憶が80分しかもたない」(←ということも忘れてしまうのでこのメモをいつも身につけているジャケットにピンでつけている)数学者のところへ働きにでる。主人公は生来の献身さと朗らかさ、そしてプロとしてのプライドを持って博士の生活を支え、博士も道を究めようとした人だけが到達できる大らかさを持って、主人公とその子供を数学の美しい調和の世界に誘う。
素数、友愛数、完全数、オイラーの等式といった美しく、シンプルでありながら奥深い世界が、あまりにも饒舌にすぎる現代と対照的で、多くを語りすぎるのではなく「大切なことを心で視る」ことを博士は教えてくれる。そうやって本質をじっくりと学ぶ習慣を与えられたルート少年はやがて数学を愛し、それを仕事とするようになり、またその愛情の起源を自分の教え子に伝える。
残念ながら小説を読んでいないので何とも言えないが、小説を読んだ人の多くも鑑賞することを想定しているためか、やや伏線が甘いというか唐突な印象を少しだけ受けた。しかしながら、落ち着いた雰囲気の中に日本の静かで豊かな自然、というか豊かな「時間」を感じられるいい映画だった。
2006/02/20(Mon) 16:49 [permlink]
茨木のり子さんがなくなった。「自分の感受性くらい」に何度も叱咤された。言葉の力を初めて強く強くで実感した詩だと思う。
この「馬鹿ものよ」と言われることがなぜ今の我々に響くのだろう。この詩が編まれた60年代末〜70年代前半、この国は最も力強く成長した時代を終えつつあり、一目散に追いつけ追い越せで社会が何もかも上手く回っていた時代から、その時代が残したひずみを少しずつでも無視できない程度に感じる時代になってきた頃ではないか。若者は苛立ち、怒っていた時代だったと思う。その文脈では孤独で、やり場のないものを持つ若者にこの詩は厳しくその幼稚さを諭す。
でも何故今の僕らにも響くのだろう。別に僕たちは憤ってなんかないし、寧ろその真逆で、無気力だ。怒ることすら面倒なのだ。ほとばしる何かがあるわけでもなく、こんな叱られ方は筋違いだ。でも事実、心を動かされるのである。何故か。それは、感情的になることを抑圧されてきたからだと思う。お利口にしてなさい、早く大人になりなさいと。でも、この詩は感情を抱えることを否定しない。そうやって感情を持つことは普通だよと囁き、ただそれは自分のせいだよと厳しく諭す。その台詞に上辺だけでない強い愛を感ぜずにはいられない。根底にある揺るぎない母性のような優しさを見いだすからこそ、叱られ慣れていない今の時代の若者はこの詩に打たれるのではないか。本当は叱られたいのである。でも今の親は叱れない。大人になればなるほど何が正しいのかなんか分からなくなるから。絶対に信じられる物がない今の世の中では親は叱ることすらできない。
とにもかくにも、ご冥福をお祈りします。ありがとうございました。
この「馬鹿ものよ」と言われることがなぜ今の我々に響くのだろう。この詩が編まれた60年代末〜70年代前半、この国は最も力強く成長した時代を終えつつあり、一目散に追いつけ追い越せで社会が何もかも上手く回っていた時代から、その時代が残したひずみを少しずつでも無視できない程度に感じる時代になってきた頃ではないか。若者は苛立ち、怒っていた時代だったと思う。その文脈では孤独で、やり場のないものを持つ若者にこの詩は厳しくその幼稚さを諭す。
でも何故今の僕らにも響くのだろう。別に僕たちは憤ってなんかないし、寧ろその真逆で、無気力だ。怒ることすら面倒なのだ。ほとばしる何かがあるわけでもなく、こんな叱られ方は筋違いだ。でも事実、心を動かされるのである。何故か。それは、感情的になることを抑圧されてきたからだと思う。お利口にしてなさい、早く大人になりなさいと。でも、この詩は感情を抱えることを否定しない。そうやって感情を持つことは普通だよと囁き、ただそれは自分のせいだよと厳しく諭す。その台詞に上辺だけでない強い愛を感ぜずにはいられない。根底にある揺るぎない母性のような優しさを見いだすからこそ、叱られ慣れていない今の時代の若者はこの詩に打たれるのではないか。本当は叱られたいのである。でも今の親は叱れない。大人になればなるほど何が正しいのかなんか分からなくなるから。絶対に信じられる物がない今の世の中では親は叱ることすらできない。
とにもかくにも、ご冥福をお祈りします。ありがとうございました。

